アルゼンチン:88歳の女性人権活動家
- 2017.05.16 Tuesday
- 06:03
ヘベ・マリア・パストル・デ・ボナフィーニ、現在88歳が、刑事免責に対して人権のために闘い続けている。|写真:Asociacion Madres de Plaza de Mayo
母の日に、沢山の人に刺激を与えている精力的な、アルゼンチンの人権保護活動家、ヘベ・デ・ボナフィーニにスポットライトを当てる。
ブエノスアイレスの小さな村で彼女がキカと呼ばれていたころ、静かで、控えめな子供だった。彼女が14歳の時、結婚し、3人の子供を持った。
彼女は、1928年12月4日に、ブエノスアイレス州の州都ラ・プラタ近くのエンセネダの外れで生まれた。
アルゼンチンが、1970年代に血塗られた独裁に沈んだ時、小さな町の少女は、彼女の子供たちのうちの2人と義理の娘が軍事政府に反対したために、誘拐され、拷問を受けて、殺されるという、彼女の人生が滅茶苦茶になることを経験した。
「私の息子が誘拐される前、私は全く別の女性であり、全く違う主婦でした。」とボナフィーニは、インタビューに答えた。
「私は、何も知らず、関心がなかった。私の国の経済、政治の状況は、全体として、私にとって無縁なもので、興味がなかった。しかし、私の息子が行方不明となってから、彼への愛、彼を見つけるまで探すという熱意、祈り、問いかけ、私の元へ返せという要求、私のように同じ熱望を持った他の母親たちとの出会いと共有が、私を新しい世界へと連れてきた。」
ヘべ・マリア・パストール・デ・ボナフィーニは、現在88歳であるが、彼女は、最も重要な人権組織の一つ、『5月広場の母親たちの会』のリーダーとして、刑事免責に対して人権のために闘い続けている。
1977年以来、行方不明か殺害された子供を持つ、ヘベら母親たちは、毎週木曜日、カーサ・ロサダの大統領官邸前の5月広場に集まっている。
女性たちは、一つの特徴的な白いハンカチーフを頭に身につけ、1976年から1983年の間に、軍事独裁によって行方不明とされた3万人以上のための正義を要求している。
当時の抗議は、軍事警察によって武力による弾圧にあった。怪我や殺害という脅迫にも拘わらず、アルゼンチンの母親たちは、政府の暴力に対して堂々と意見を述べて前へ進んで行った。
1987年に英国のミュージシャン、スティングがアルゼンチンを訪れた時、リバー・プレート・サッカー場でのコンサートに、この組織を招待し、「孤独なダンス」を歌う時に、彼と一緒にステージへと伴った。この曲は、彼女らの闘争からひらめいたものだった。1998年にU2がこの国を訪れた時、ヘベはまた、彼に白いハンカチーフを送った。
デ・ボナフィーニと彼女の組織は、侮辱、殺人の脅迫、攻撃や拷問さえ経験してきた。彼女は、実際に大学でのデモの時、警察によって傷つけられた。数年前、2人の男が彼女の家に入ってきて、ヘベが留守だったので、彼女の娘アレハンドラを拷問し、殴り、たばこの火で焼いたりした。
彼女はまた、「飢え」と「国家暴力」に直面している彼女の国を助けてほしいと、アルゼンチン出身のカソリックの指導者フランシスコ法王に公開書簡を送った時も、殺害の脅迫があったと話していた。
マクリが大統領に就いた後、彼女は、「集団的な暴力の扇動」と「公共秩序に反対する陰謀」という容疑で連邦検察に告訴された。そして、公的な基金の着服容疑の裁判で、一連の証言を拒否したことから、裁判所は彼女の逮捕を命じた。しかし、沢山のアルゼンチンの市民が抗議をするために街頭に出て、ボナフィーニを守ったため、この裁判は却下された。
マクリは、この人権活動家を批判し、「狂っている」と言い、この国の汚れた戦争時代に行方不明になった事例は、8,000件に過ぎないと発言している。汚れた戦争は、コンドル作戦の一種であり、左翼運動を絶滅させるために、合衆国によって支援されたラテン・アメリカ全体を貫く冷戦時代の暴力的な軍事作戦であった。
また、彼女は、チェ・ゲバラ、アウグスト・サンディーノ、フィデル・カストロ、ウーゴ・チャベスとエボ・モラレスといった左翼指導者の率直な支持者だった。(N)
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