こんなにもあるカリブ地域への米国の軍事介入

  • 2019.12.08 Sunday
  • 06:30

ドミニカでは与党労働党が金曜日の選挙で圧勝した。米国はまた介入を準備しているらしい。


カリブ地域での米国の干渉の簡潔な歴史

A Brief History of the US Interference in the Caribbean Basin

2019年12月5日 teleSUR発

U.S. Army soldiers Airborne Division on patrol on Grenada during

1983年10月の「緊急猛威作戦」でグレナダをパトロールする米軍空挺部隊の兵士たち。|写真:Wikimedia Commons - Sgt. Michael Bogdanowicz

 

米国が他国の内政に介入する権利を自らに与えて以来、その外交政策はいわゆる民主主義への関与を何度も越えてきた。

 地政学の歴史においては、ヨーロッパ人がアフリカの領土を争った19世紀の終わりに「帝国主義の時代」が始まったと考えられることが多い。

 しかし、そのずっと前に、カリブ地域は天然資源と安い労働力を求める幾つかの国にとって最も望ましい地域だった。事実、新しい世界の「征服」は、それ自身が暴力的な出来事ではあるが、まさにそこで始まったのだ。

 キャステリア人とイギリス人は世界のこの地域への外国人侵入の最初の主役だった。しかし、一度植民者が独立し、自分自身の国を建設し始めるようになると、彼らは初期のカリブ諸国に対する主な暴力の推進者であることを止めた。

 19世紀後半、英国がまだ最大の経済と世界で最も強力な通貨を持っている国だった時、フランスがメキシコの侵略と征服ができると考えていた時、米国がカリブ地域に最も直接かつ有害な軍事的、政治的、そして経済的影響力を行使できる最大の能力を持つ主役として登場した。

 

【保護国であった時代に、米国は介入する権利を自分自身に与えた。】

 1898年から1933年にかけて、米国は、地理的にすぐ近い環境にある新しい国家の「保護国」として自身の地位を示すことによって、帝国主義外交政策を開始した。

 「保護国としての時代」は1901年に最初の法的な地位を獲得した。その時、1989年にスペインから独立した国、キューバの出来事に介入する権利をプラット修正案が米国に与えた。

 この介入する力は、米国がキューバの独立と将来の自由を確保したかったこという理由で正当化された。

 20世紀初頭、1903年のパナマ運河建設協定に署名したこと、ドミニカ共和国におけるヨーロッパの利害の存在および経済的発展が間違いなくカリブ地域を米国の関心事の中心に変えた。

 それゆえ、1904年にセオドア・ルーズベルト大統領がその地域向けの米国の外交政策の特徴、すなわち、軍事的プレゼンスを目に見える形で拡張することを決定した。

 文明の強度を保護するという名目で、保護国の時代はカリブ地域へ20回以上の軍事介入を行った。

 1903年、米国は外交的陰謀と政治的策略のキャンペーンを展開し、コロンビアからパナマ領を分離した。

 1906年、米国の戦争長官ウイリアム・タフトがキューバの「暫定知事」に任命された。

 1908年、パナマの最初の大統領選挙において不正疑惑で悩まされていたが、米国海兵隊の派遣によって選挙の合法性を保証した。

 1912年、米国は海兵隊をニカラグアに派遣して、大衆の反乱に直面したアドルフォ・ディアスの大統領の地位を保護した。外国人部隊は1933年まで残っていた。

 1914年、ラテンアメリカで最初の大規模な社会革命の最中に、米国兵士がメキシコのベラクルス港を占領した。

 1915年、海兵隊が米国企業を守るためにハイチに入った。ドイツがカリブでの存在感を高めることに関心があるかもしれないと主張して、彼らは1934年までこの島に残った。

 1916年、米国は軍事政府を押し付けるためにドミニカ共和国へ部隊を派遣した。この外国の占領は1924年まで続いた。

 1918年、米国陸軍が議会と市長選挙を監視するためにパナマに入った。

 1924年、1923年の大統領選挙で起きた不正の後、政治的危機を高めていた地元の特権階級の間の紛争を解決するために海兵隊がホンデュラスに介入した。

 1926年、米国はニカラグアに国家防衛隊を設立することを決定した。それは直ぐに、侵入者を排除するという目標を設定したアウグスト・セサール・サンディーノが率いるゲリラを出現させた。

 1930年、米国はドミニカ共和国のラファエル・トルリージョ軍事体制の設立を支持した。人権侵害で有名になった、このカリブの独裁者は1961年に死ぬまで大統領の地位に残った。

 1934年、独裁者アナスタシオ・ソモサ・ガルシアは、ニカラグア米国大使アーサー・ブリス・レインと共謀して大衆反乱の指導者サンディーノの殺害を命じた。

 しかし、この右翼の政治的陰謀は期待した結果を得られなかった。すなわち、社会的な不満の高まりに、米国はもはやニカラグアに軍隊を維持することができなくなったからである。

 

【「良き隣人の時代」にもこん棒が消えることはなかった。】

 1933年、フランクリン・D・ルーズベルト大統領はラテンアメリカで非介入に基づくことを想定した外交政策を開始した。しかし、米国の支配階級はそのような願望が容易には実現できないことに気付いた。

 幾つかのカリブ諸国からの米国部隊の引き上げが伴うことに加えて、「非干渉原則」の即時全面的な適用は多国籍企業、フルヘンシオ・バチスタ(キューバ)、ラファエル・トルヒージョ(ドミニカ共和国)やアナスタシオ・ソモサ(ニカラグア)のような米国の支援のおかげで成長した独裁者の多くの利益を危険に晒すことを意味した。

 武器によって存在を示す代わりに、米国は貿易協定を通じた影響力を強化しようとした。しかし、1933年から1953年にかけて、良き隣人政策は、米国が手荒な手段で利益を挙げようとするのを止めたわけではなかった。

 その20年以上の間にも、米国は長期間の国家安全保障の必要性に応じて地元の国家を形成することを目的とした行動を取り続けた。

 明らかに、より近代的な制度を促進したとしても、かつて権力に就いた独裁者の支援の撤回を伴うものではなかった。また、武力行動の全面的な放棄を意味するものでもなかった。

 1941年、パナマ大使館を通じて、パナマ民主主義の象徴となったハーバード大学卒業の医師、アルヌルフォ・アリアスに対するリカルド・デ・グアディアが率いるクーデターが成功するように米国が援助した。

 1946年、パナマの軍事体制が作った環境を利用して、アルゼンチン、ブラジル、チリ、ウルグアイとベネズエラにおける独裁体制を推進する人間を訓練するための中心的なセンターとして歴史に名を残す機関、『スクール・オブ・アメリカズ』を設立した。

 1952年、良き隣人時代が終わってすぐ、米国はキューバのフルヘンシオ・バチスタのクーデターを支援した。

 

【カリブは冷戦の中心となった】

 1954年から1990年まで、カリブ向けの米国の外交政策は主に「共産主義の脅威」を封じ込めるという名目で実行された。

 手始めとして、1954年には、ドワイト・アイゼンハワー大統領とCIAおよびユナイテッド・フルーツ会社がグアテマラのハコブ・アルベンス大統領を打倒する行動に連携した。アルベンス大統領はワシントンを怖がらせたもう一人の改良主義者の大統領だった。

 その時、新しい国際秩序を強化するために、米国は、「集団的安全保障」のために作った機関米州機構(OAS)を利用した。

 しかし、明確な国際法に対する尊重は長くは続かなかった。再び、米国は暴力を通してのカリブ地域との関係を管理した。

 1963年、ドミニカ共和国のファン・ボッシュ大統領は軍事クーデターによって追放された。このクーデターは社会の組織されたセクタが推進した進歩的な強い願望を封じ込めることを狙いとしていた。弾圧は「秩序をもたらすもの」と呼ばれていたが、独裁は自分自身では何もできなかった。

 1965年、4万人以上の米国海兵隊がドミニカ共和国に侵略し、ボッシュ大統領を同国に戻すことを目的とした反乱的抵抗運動を組織した人々を排除した。想定された共産主義の脅威を終わらせるために、3,000人以上を排除する軍事作戦を必要とした。

 1966年、リンドン・ジョンソン大統領は武器、アドバイザーおよび部隊をグアテマラに送った。彼の決定によって、先住民、農民、労働者、学生と反体制派に対する30年におよぶ汚れた戦争へと突入させた反乱対策軍事作戦が開始された。グアテマラの政治では死者、拷問および行方不明の人数がいまだに議論の的となっている。

 1981年、ロナルド・レーガン大統領は、ニカラグアのサンディニスタ民族解放戦線(FSLN)政府と闘う傭兵を貸し出す民兵組織「ラ・コントラ」をCIAが創設できるように財政資金を提供することを承認した。

 この左翼政党は、1937年以来同国を支配して来た米国を後ろ盾とした3人目の独裁者、アナスタシオ・ソモサ・デバイレを打倒して1979年に権力に就いていた。

 1983年、7,000人の米国部隊がグラナダを侵略し、マウリス・ビショップ大統領を打倒した。彼は、エリック・ガイリー首相の専制体制に反対する大衆抵抗運動を組織した左翼政党『ニュー・ジュエル運動』の指導者だった。

 1989年、ジョージ・H・W・ブッシュは、直前まで米国の同盟者であった将軍マニュエル・アントニオ・ノリエガを逮捕するためにパナマ侵攻を命じた。米国の軍事介入の結果、3千人以上のパナマ人が亡くなった。

 

【冷戦後の米国の緩衝地帯】

 1991年の終わり、ソビエト連邦が連邦を解散し、ロシアは国際的な主体としての伝統的な力を失った。厳密にいえば、有名な「共産主義の脅威」は終わった。

 それにもかかわらず、冷戦後であっても、米国は「旧ソ連邦諸国」あるいは「裏庭」としてカリブ地域を扱い続けた。

 米国はこの地域全体の議論の余地の無い所有者であるかのように振る舞い、キューバに対して経済的、金融的、貿易封鎖によって嫌がらせを続けている。それは1960年代に始まり、今でも続いている。

 米国はまた政治的に独立したカリブの組織に反対する行動を実行するために、外交的、政治的、そして好戦的な手段を用い続けてきた。

 1994年、ビル・クリントン大統領はハイチを侵略した。この行動は、ラウル・セドラス将軍から同国の歴史上最初の選挙で選ばれた大統領ジーン・ベルトランド・アリスティドへ権力の移行を保証するという口実の下で正当化された。またしても、米国の民主主義への約束は長く続くことはなかった。

 1994年から1996年まで大統領を務めた後、元サレジアンの神父アリスティドが2001年に再び大統領となった、この政治家が左翼に偏り過ぎたとして、米国が支援したクーデターによって2004年に追放された。このクーデターはドミニカ共和国からハイチに侵略した民兵組織が実行したものだった。

 その後、2008年に、ホンデュラスはクーデターの新しい「モデル」の実験場となった。米国はホンデュラスの制度的危機を意図的に作り出すために右翼政治家を支援した。

 人為的に埋め込まれた行き詰まりを解決するために、国際メディアと地元の民間メディアは、ワシントンが望む解決策、つまりマニュエル・セラヤの解任を慎重に構築し始めた。

 2008年11月、彼はホンデュラス軍に文字通り誘拐され、国外に移送された。軍市民同盟はプロフィリオ・ロボをホンデュラス大統領として宣言し、ワシントンは即座に彼を同国首脳として承認した。

 それ以来、「クリーンな」クーデターを実行するためにワシントンで作られた新しい形式はその他のラテンアメリカで、2002年のベネズエラ、2010年のエクアドル、2019年のボリビアでも実行された。

 歴史的に米国によって緩衝地帯と見られてきたカリブ地域では、今度は戦争の風がドミニカの方へ向いているようだ。ドミニカでは右翼野党がボリビアのレシピを試そうとしている。すなわち、前もって選挙結果の合法性を認めず、力づくで権力を握ろうとしている。(N)

Almagro’s Destabilization Discourse

First Bolivia, now Dominica?

teleSUR Englishさんの投稿 2019年11月22日金曜日

原文URL:

https://www.telesurenglish.net/news/A-Brief-History-of-the-US-Interference-in-the-Caribbean-Basin-20191205-0004.html

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趣旨

今、ラテンアメリカでキューバを先頭とする社会主義、ないし社会主義を志向する大衆闘争が注目です。特に、昨年末(2015年)アルゼンチン、ベネズエラで右翼が勝利し、米国に支援された反動右翼と進歩的な人民大衆との熾烈な階級闘争が繰り広げられています。日本のマスコミは歪められたものしか報道していません。 だからこそ今、目の前で闘われている大衆闘争について現地の報道機関やブログで報道されているものを日本語にして日本の労働者に紹介していくことは、国際連帯としても日本での民主主義を闘いとる闘争にとっても有意義なことであるように思います。

おことわり

このブログでは英文記事を翻訳してご紹介しておりますが、筆者はかなずしも英語に堪能であるわけではありません。 従って、多々誤訳等があるかと思いますが、ご容赦願います。

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