ベネズエラ:初期のチャベス主義運動からの活動家へのインタビュー

  • 2019.05.28 Tuesday
  • 04:35

このインタビューでは、チャベスの改革運動が5人単位の愛国サークルの組織化から始まったことなど興味深い話があります。


今日のチャベス・プロジェクトを守る:エリアス・ファウアとの対談

(Defending Chavez’s Project Today: A Conversation with Elias Jaua)

2019年5月17日 venezuelanalysis(By Cira Pascual Marquina)発

Elias Jaua is a Chavista politician and intelectual. (Venezuelanalysis)

チャベス主義政治家で知識人であるエリアス・ファウア。(Venezuelanalysis)

 

ウーゴ・チャベスの親しい協力者が、今日の脅威の下で、運動の初期の目標についてVAに語る。

 革命党『バンデラ・ロハ』の秘密部隊に学生として参加したエリアス・ファウアは、ベネズエラの政治家であり、元大学教授である。チャベスは彼を農業大臣と副大統領に指名し、一方、マドゥーロの下で彼は外務、コミューンの副大臣だった。ファウアは現在、『エンクエントロ・デ・ルチャ・ポプラール』と呼ばれているチャベス主義者の政治運動の重要な人物であり、チャベス主義者プロジェクトの中心軸としての人民権力を擁護しながら、強固な反帝国主義的立場を堅持して定期的に執筆活動を行っている。

 

【あなたは、1997年に第5共和国運動(MVR)と呼ばれるようになった運動の設立に参加した。それはあなたに1990年代の政治運動としてのチャベス主義の起源と設立に特権的な展望を与えた。】

 

 私は1996年5月にウーゴ・チャベス司令官とじかに仕事を始めた。その時までに、チャベスは選挙に参加するという考えを検討している最中だった。テーブルにあったその提案は、(1980年代に)兵舎から始まったが、1994年には路上の大衆と左翼潮流が加わり始めたこの運動に選挙のコースが検討されていた。最終的に1997年に、ウーゴ・チャベスの立候補によって1998年の選挙に参加すると決定された。

 1997年4月19日、MBR-200(1982年にチャベスが設立した市民と軍隊の運動)の会議で、最終的に第5共和国運動(MVR)と呼ばれた選挙母体の形成をこの運動は承認した。推進する思想は共和国の再生を目指すボリバル・プロジェクトだった。この時点までベネズエラの歴史上4つの共和国が存在していた。MVRは第5共和国の創設によってその歴史に大きな風穴を開けることを提案した。

 その頃には、チャベスは、それぞれのバリオで、それぞれのコミュニティで、それぞれの町で、最低5人で組織する仕組みである愛国サークルと我々が呼んでいたものを発展させる仕事を我々(彼に近い人民)に与えた。これらは、1998年の選挙キャンペーンと1998年12月6日の選挙へ進むことが可能となった選挙組織(の最初の第一歩)だった。

その頃には1996年に始まった活動はチャベスの全国ツアーと共にスピードアップした。実際、どこへでも行った!私はチャベスが人民と対話するイベントを準備するチームに属していた。機関の集会場は我々には与えられなかったので、大抵の場合公共の広場だった。我々は地元組織との集会を準備し、また地元のリーダーと共に大衆的な集会を準備していった。我々はこれをやっている時に、我々はまた地域レベルで愛国サークルを作っている人々と一緒に作業した。

 それは1997年の事だった。1998年に私は、(東カラカスを含むこの国で2番目に人口の多い)ミランダ州で、政治組織と運動の方向を作り上げる任務を与えられた。その時までに、約2万5千の愛国サークルが存在しており、我々がやって来た活動を組織化し始めることが必要になっていた。我々がMVR戦略の中に「地域戦術司令部」を作ったのはその時だった。そして、私は司令官のグループと一緒にミランダ州で活動し、そこに勢力を組織する任務を与えられた。しかし、私はキャンペーンを通じてチャベス司令官と同伴することを続けた。

Hugo Chavez in a public campaign meeting in the mid '90s. (Reference)

90年代半ばのキャンペーンの大衆集会でのウーゴ・チャベス(Reference)

 

【この初期の時代のこの運動の階級構成をどのように特徴づけますか?】

 多くの階級が混ざり合ったものだったし、過激な左翼から右翼までの多様なイデオロギーがあった。二つの2大政党ADとCOPEIに反対していた古いブルジョアジーのメンバーを取り上げると、彼はそれでも大変な保守主義者だった。1996年を通しても、参加してきた人の中には極右のグループや個人もいたが、彼らは直ぐに居なくなった。明らかに、その運動は大衆勢力、大衆運動、左翼組織、それと軍部の愛国セクタから成っていた。だから要約すれば、その運動は全体としていろいろな階級に起源を持っていた。

 

【その運動はそのような多様性にどのように対応したのですか?】

 この運動の最初の頃に様々な階級と多様なイデオロギーがあったという事実は、当時必要とされた方法でそれを全く強固なものとした。チャベスは複合的であることを認めることを強く主張した。彼はいつも運動の中に均衡を作り出す「要因」であり、(権力を獲得し)共和国を再生しなければならないという共通認識に集中していた。

 

 当然、討論は激しいものとなったが、運動に参加した(社会全体の中で)我々すべての側では2大政党のプントフジスタ政府モデルを閉鎖に追い込みたいという希望があった。我々を団結させているものは、1998年12月6日の大統領選挙にウーゴ・チャベスを立候補させるという目標だった。

 しかし、初期の時代の運動における様々な階級が混ざり合った性格が、チャベス大統領の最初の1年に沢山の失敗があった原因である。最初に我々を団結させていたものはADとCOPEIを追放するという目標だったが、後にチャベスが革命をさらに人民の方向へ推し進めようとすると、右翼の部分が運動から離れて行ったのはその時だった。

 チャベスにとっては、国家を再建することと新しい共和国を創設することは、青い本(1992年にチャベスが書いた短い冊子で、そこに歴史と民主主義に関する彼の見解が書かれていた)の中ですでに提示していた民主主義の急進的な新しい概念と大いに関係があった。初期の著作の中で示されているように、その民主主義の概念は、すでに、後にチャビスタ運動の中で発展した社会主義プロジェクトを指していたということができると思う。あなたはチャベスの中の民主主義と社会主義の関係をどのように見ていますか?

 

【年代順ではなく、この質問に取り組んで見ましょう。チャベスは、2010年と2011年頃に、多くの大衆向け演説で「民主主義は社会主義であり、社会主義は民主主義である」と発言し、彼は「資本主義は本質的に反民主主義である。」と述べている。言い換えれば、彼は民主主義と社会主義は別々のものだという2分法を捨てた。】

 後に、チャベスは、我々は「民主的な社会主義」について語るべきではないと言い続けた。何故なら、社会主義は本質的に民主主義だからだ。そうではなく、我々は社会主義的な民主主義について語るべきであると彼は主張した。だから、そこに僅かな言葉で、チャベス大統領はあなたの疑問に答えている。

 間違いなく、民主主義の、人民権力の問題は、彼の思想の中を駆け巡る血管である。それは青い本の中にあり、アルタナティブ・ボリバリアン・アジェンダ(Agenda Alternativa Bolivariana of 1996)の中にある。チャベスは民主主義と人民権力に関するこの洞察から哲学と文化を創りあげた。発言し、参加し、提案し、自分を表現し、もちろん決定する、そのような人民の権利すべてが彼の思想と行動にとってキーだった。

 チャベスは人民主権に熱心であり、彼は人民が言ったことを指導者は実施すべき義務があるとも理解していた。その理由は、右翼から、左翼の一定の知識人の部分からも、チャベスを悪魔化する議論が持ち上がった。彼らは「チャベスは合意を封印しない。彼は社会の他のセクタとどんな譲歩もしない。彼は少数者の権利に取り組まない。」と言っていた。しかし、チャベスにとって、民主主義とは多数者の命令であり、少数者を認めることである。認めはするけれども、多数者が強く明確に主張する時には、作られるべき協定はない。

 さらにチャベスはいつも、選挙の公約に関して人民に非常に正直だった。それゆえ1998年の選挙運動では彼は明確に憲法改定を要求した。この勝利の後、強力な経済的、政治的セクタが彼のところにやって来て、憲法改定に進む前に合意が必要だと言ってきた。それには彼は「ノーだ、私は負託された。」と答えた。

 このようにあらゆる選挙で、彼は公約を説明した。後に、人民が彼に投票しことによって、公約は負託された。もう一つのこのような例が2006年にあった。その時、彼は彼の選挙プロジェクトは社会主義だと宣言した。その時から、人民が彼に前進する正当性を与えた負託をアピールした。

 これらは、チャベスがどのように人民の主権という問題を代表制の空間へ、古典的でリベラルな民主主義へ持ち込んだ方法である。ただし、ご存じのように、直接民主主義もまた彼のプロジェクトにとっては重要だった。

 チャベスは直接民主主義を促進し、育て、人民が本物の権力、実行力のある権力を持つように人民権力を構築するための扉を開けた。それはコミューン住民評議会、農民評議会、学生評議会、労働者評議会、そしてコミューンが存在するところである。それはすべて愛国サークルと共に始まり、すでに直接的民主主義の形態の一種だった。

A communal council assembly in Amazonas state, an expression of direct democracy. (Reference)

アマソナス州のコミューン住民評議会、直接民主主義の一形態。(Reference)

 

【1990年代の危機に苦しめられた10年の間に、ウーゴ・チャベスを中心として成長したこの運動は政治と社会の倫理的再編成を追及した。明らかに、我々はボリバル・プロセスの危機に直面しているが、現在の状況を克服するためには新しい「歴史的きっかけ」が必要だということにあなたは言及した。すなわち、それは1992年2月4日に起きたこと(チャベスの軍事的反乱)、あるいは1998年のチャベスの選挙と同じような何かである。】

 1990年代にチャベスが主導した運動は、彼は沢山の場面で述べているが、全体としてベネズエラ人社会の強い願望を根拠としていた。米国の地政学的利益に従属すること、その国へ我々の富を競売することに反対する独立した主権国家を(人民が求めていた)。不平等が少なく、貧困が少なく、もっと誠実な国を(人民も望んでいた)。チャベスはこのようにして社会の目標と願望をまとめた。彼は集団的願望を具現化したということもできる。

 社会の内部には、新しい時代がベネズエラで開くことができるように何かが起きなければならないという感覚があった。そして実際に起きた。1998年(チャベスが大統領に当選したことによって)は平和的ではあるが民主主義的な亀裂を刻む。すなわち、それは歴史的なきっかけだったし、古い腐敗した政治モデルの脱却だった。しかし、それはまた社会の保守層が主導した一連の緊急事態や攻撃となった。2002年(クーデターと石油生産のサボタージュ)、2004年(野党がチャベスの大統領職を無効化しようとした)、そして2007年(暴力的な右翼の学生を動員した)は、激しい不安定な時代となった。

 間違いなく、1998年がベネズエラの歴史上最高の独立と主権の時代の始まりを刻む。それは偉大な民主主義の時代、政治的な分野だけでなく、経済的な分野でも、文化と社会の分野でも民主主義の時代でもある。大統領から、そして政府から公衆の目に新しい倫理的な論理が現れた。それはベネズエラがかつて見たことの無いものだった。長い年月の中で初めて、ベネズエラに社会の手本、見習うべき人物である大統領が現れた。彼の生活は彼の主義に合致していた。倫理は行政の分野を指すだけではないので、私はこう言っている。我々は政治的倫理と政治的アイデンティティ、すなわち言説と実践における一貫性についても話している。

 残念なことに、その論理は国家装置全体と社会全体を貫く文化とはならなかった。

 ウーゴ・チャベスは管理した方法が誠実なだけではなかった。彼は初めての、抜きんでた最初の政治的に誠実な人物だった。このインタビューで最初に述べたように、彼は進もうとしているところについて決して人民を騙すことはなかった。彼はいつも言っていた。「私に投票してくれた人は、このプロジェクトに投票したのだ。」

 現在では、明らかに(チャベスの下で)実現された希望や願望は、何かしら非常に不安定である。軍事的介入の可能性に直面しているように、国家の独立は脅迫されている。一方、制裁は我々の資源や財政の管理を制約している。この上、海外で自分たちを代表する能力も縮小されている。それらすべてが我々の国家主権を弱体化している。

 この対立の新しい局面は、その他の政治的移行と一緒に進んでいるが、2013年の大統領選挙でニコラス・マドゥーロが勝利したことを野党が認めないことから始まっている。それは経済に影響を与え始め、不平等が拡大し始めた。我々は貧困が再び深刻な問題となっている国にいる。そこには飢えが再発し、そこでは医療や教育を受けることが困難であることが実際にありふれた問題となっている。そこには原油価格の下落や新しい政治メカニズムの出現などの複数の要因があることは間違いないが、主な要因は長期に亘る政治的対立にある。

 今日、我々は再びラテン・アメリカで最大の収入を持つ国であるという悪いカルマを取り戻した後の公平でない社会であるだけでなく、最も不平等な国でもある。チャベスと共にベネズエラは最も公平な収入分配をする国になった。今、私はチャートのどの辺にいるか分からないが、我々は恐ろしく不公平な社会にいることは通りに出て見れば十分である。人民が自分たちの権利が消えて行き、生活条件が急速に悪化していくのを見ている間に、多くは違法な方法で莫大な富を蓄積している人たちが存在している。

 さらに、長期間の対立によって引き起こされた組織的不安定は、すべての社会組織に腐敗が転移することとなった。

 だから、我々は今1990年代にベネズエラ社会が直面したのと同じジレンマに直面しているが、一つの違う事は、今我々は一つのプロジェクトを持っており、社会の災難を封じ込めることができることであり、そして何より、我々は組織された意識の非常に高い、チャベスが始めた道を再開することに全力を傾ける民衆を持っていることである。我々は非常に困難な状況に著面しているが、この国の倫理的に再確立を開始することは可能だと思う。それは経済的、政治的、社会的分野で行われなければならない。

 

【チャベス主義運動は帝国主義に対峙するときには固く団結している。それでも国内的には、予想されているように、現在の危機の解決策をめぐって違う傾向と多様な提案が存在している。解決策は外国の投資だとか、公共企業の民営化だと主張する人もいる。他の人はコミューンによる解決を目指すべきだと主張して、『エル・マイサル』のような構想あるいは『人民から人民へ』計画を指摘している。どのよう思いますか?】

 あなたが挙げた解釈の多様性はチャベス主義運動の多階級制に根ざしている。それは多様なイデオロギーや政治的起源、それぞれ異なる現実の生活から集まった潮流がまとまったものである。それはいつも緊張が存在していることになる。

 今我々は巨大な危機に直面している。プラグマティックな脱出策が自然に大きく姿を現すだろうし、チャベス主義運動の核心が柔軟性のある原則にあるとしても「必要だ」として提示されるだろう。

 ここで、ボリバル・モデルは私有財産や民間投資を廃絶することを提案しているのではないと言っておく。それは『アルタナティブ・ボリバリアン・アジェンダ』のケースではないし、あるいは『プラン・デ・ラ・パトリア』(2012)のケースではない。ボリバル革命は混合したモデルであり、その中で、人民の利益に従属した民間部門と一緒に、最初は「社会主義経済」と呼ばれ、後には「コミューン経済」として知られるようになった部門の出現と一緒に、国家が経済の重要な鍵となる役割(命令の高さにおいて)を果たす。それは明確にされるべき最初の事である。

 さらに、経済の中でこれらの部門の比重について話す時、チャベスの主要な目標が資本の手の中にではなく、人民の手の中に作り出される経済を育てることにあったことをよく見ておかなければならない。彼はヨーロッパ社会主義の失敗を繰り返さないことに熱中した。それは国家主権主義であるが、他方で彼は私的所有のどんな賛美にも背を向けた。要約すれば、チャベスの理念は私的資本の支配を打ち破ることである。

 今日、永く続いている流れがある。ボリバル革命の目的は(単に)古い体制を置き換えること(それは実現した)であるということができ、公的教育や医療へのアクセスを保証することがそれ自身のゴールであると主張する人もいる。それらは一層、目に見えるようになっている。彼らの言説は、「社会の中の社会主義」という理念を覆す。

 ウーゴ・チャベスはいつも「社会の中の社会主義」という前提と闘っていた。彼が革命は社会主義的性格を持つと宣言した時、非常に明瞭に語った。「私は西ヨーロッパの社会主義の話をしているのではない。それは国家の参加によって幾つかの社会的問題を解決することだけではない。」と彼は語っていた。それが、私的部門が経済の支配権を握っている社会のために骨を折ることはこの革命の精神に反することになる理由である。

 民営化傾向を挙げた理由は絶対的な問題があるからだ。彼らは国有財産と社会資産の不効率を挙げている。けれども、大規模な国有化が2007年と2008年に実施され、石油部門だけでなく工業や農業においても、それは大きなGDP成長を遂げた年となった。CEPALの数字がそれを証明している。

 興味深いことは、その年には国営企業は2倍あるいは3倍の生産を行ったことである。これはある点では国家が資源を投入したためであり、民間資本はそんなことしようとしなかった。だけど、それはまた国有化のすべての過程が集団的な献身的な精神に刺激されたからでもあった。これすべてが、食料生産が飛躍的に拡大し、同時に貧困がほとんど絶滅されたことを意味した。

 さらに言えば、多国籍企業の手の中にあった鉄鋼とセメントを国有化することなく、ベネズエラ大住宅ミッションは不可能だったろう。CANTV(電話会社)を国有化することなく、通信の民主化は起きなかっただろう。何故なら人民はそのサービスに支払うお金を持っていなかったからだ。経済的な収益性の観点からだけで物事を見てはいけないので、これは重要である。国有化プロセスの社会的成果も考慮に入れる必要がある。

 チャベス主義者の集団は、私は定期的に参加する集会や会議で見てきたが、民間部門の支配を許すことに反対している。それが経済に参加することは拒否しないが、民間部門の上に我々の方策を置くことはしない。革命プロジェクトを守り、それに全力を傾けている我々の多くは、人民と運命を共にする。一体、正気にあるどんな人が、まさにその部門が何十年も何十年も我が国経済を発展させることに失敗してきたのに、その民間部門が我々を正当に救ってくれると誰が考えるのでしょうか?

Negro Miguel Commune in Lara State, an expression of popular power and organization outside the logic of capital. (Comuna Negro  Miguel)

ララ州にある『ネグロ・ミゲル』コミューン。資本の論理から離れたところにある人民権力と組織の一形態。

 

注記:

ADとCOPEIは、プント・フホ・パクトの下で権力を共有いていた2大政党である。これは1959年にマルコス・ペレス・ヒメネス独裁が倒された後、1998年のチャベスの選挙までの時代である。そこ時にはこの国では極端に制約された代表制民主主義が確立していた。この時代は蔓延した腐敗、貧困の拡大、そして政治的抑圧として記憶されている。(N)

原文URL:

https://venezuelanalysis.com/analysis/14497

コメント
コメントする








    

calendar

S M T W T F S
      1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
30      
<< June 2019 >>

趣旨

今、ラテン・アメリカでキューバを先頭とする社会主義、ないし社会主義を志向する大衆闘争が注目です。特に、昨年末(2015年)アルゼンチン、ベネズエラで右翼が勝利し、米国に支援された反動右翼と進歩的な人民大衆との熾烈な階級闘争が繰り広げられています。日本のマスコミは歪められたものしか報道していません。 だからこそ今、目の前で闘われている大衆闘争について現地の報道機関やブログで報道されているものを日本語にして日本の労働者に紹介していくことは、国際連帯としても日本での民主主義を闘いとる闘争にとっても有意義なことであるように思います。

おことわり

このブログでは英文記事を翻訳してご紹介しておりますが、筆者はかなずしも英語に堪能であるわけではありません。 従って、多々誤訳等があるかと思いますが、ご容赦願います。

selected entries

categories

archives

recent comment

links

profile

search this site.

others

mobile

qrcode

powered

無料ブログ作成サービス JUGEM